昭和42年6月28日 朝の御理解


 『特にあの広いガラスなんかのお掃除を致しますときに、ガラスを何でしょうか、あれは白い粉で一杯こう汚してそれを拭きあげる。ようあの久留米あたりに参りますと、例えばデパートあたりの大きなウィンドウを綺麗にお掃除をする前に、白く塗るでしょう、皆さんご承知でしょう。ただあれをあのまま拭くよりも、一杯あの隅から隅まであの白いなんかあれはガラス拭きでしょうけれどね、あんなものを塗ります。いわゆるかえって、いっぺんガラスを汚してしまう訳なんです。それを段々こう拭きあげて参ります。もうくまなく拭きあげる訳ですけれども、ガラス一面を汚しておられますからね、ただ普通であったら拭いたところもありゃ、拭かんところもあると言ったような感じですが、ああしておけば、隅から隅まで拭かんわけには参りません。いっぺん汚してございますからね。
今朝から私そう言うような御心眼を頂いたんですよ。』
 ですから、そんなことに基づいてからお話を聞いて頂きたいと思う。
教祖の神様の御教えの中に、無信心者ほど神は可愛い。又は屑の子ほど可愛いとか、自分の子供の中に屑の子がおればその屑の子が可愛いのが親の心であるという風にお説きになっておられますですね。確かに一人前にしゃんしゃんやっていきよる子供事はそう心配ならんのだけれども、この人が将来親が亡くなったらどうするだろうか、というような子供ほど親はふびんであり、又可愛いものであります。天地の親神様も又同じ事。屑の子ほど可愛いと仰る。いわゆる無信心者程神は可愛いと。
 してみるとこりゃ、お互い無信心やらにゃいけんような感じが致しますですね。本当に自分な屑の子の方がいいごたる感じが致します。屑の子の方が可愛いと、神様にかわいがられにゃいけませんもんね。お互い。そんならこっちは屑の子にならにゃいかん。あんまり気が利いておったり、あんまり行き届き過ぎたりしたら、かえっておかげを受けられんような感じが致しますですね。無信心者程、これは親鸞上人様が云うておられる言葉の中にも、それによく似た言葉がございますですね。意味は少し違いましょうけれども、善人でも助かっておるではないか。まして悪人であればです、いわゆる悪人においておやという風に云うておられますですね。みんながこう信仰を持ちます。善人ですら助かっておるじゃないか、まして悪人ならなおさら助かられるんだという風に、もう本当に、天地の親神様の心の底をえぐるような言葉だと思いますね。悪人とてもやっぱり天地の親神様の氏子なんですからね、それでなら、私共がその事からでもですたい、善人でも助かっておる。悪人ならなおさらの事助かられるんだと。
 してみると私共はこりゃ、悪人にならにゃいけないような感じもする。教祖の屑の子程可愛いというそれと通じたものがございますですね。私も昔それが分からなかった。どうして屑の子程可愛いというのが、意味が分からなかった。ところがです、段々行き届いた信心をさして頂けば頂くほどに分からしてもらうこと。御教えを深く頂かして頂けば頂くほど、教えの鏡を前に立てさせて頂けば頂くほど、自分の見苦しさと言うか、自分の汚さというか、もう汚れに果てた自分である。いわゆる汚れ果てた自分であると言う自覚、自分のような相済まん者があろうか。自分こそ心の不愚者であると言うことの自覚。子供の中に例えばかたわ者がある。足が悪い。目が悪い。世の中に出て一人前の仕事も出来ないと言うような者ほど可愛いのが親の心であるように、天地の親神様は又、私共がです、心の不愚者である自覚。第一信心する者は肉眼をおいて、心願を開けよとこう仰る。心願さえ開けばです、本当に、有り難いことなのに、ただそれを肉眼的にみるから苦しい事にみえたり、腹が立つことにみえたりするのです。
 してみると、私共はもう、全然心のいわば、眼病を持っているのであり、心の目の見えない。座頭さんと同じ事なのである。という自覚なんです。心の不愚者であると言う自覚。信心を分からせて頂けば、頂くほど、自分の心の見苦しさと言うような者が分かってくる。我こそ日本一の大悪人であると言う悟り、親鸞上人様がもう人からは生き仏様と言われるようなご身分になられてからでも、自分のようないわゆる自分こそ日本一の大悪人だという風に、自分という者を見極められた。そこに私はですね、善人ですから助かっておるのだけれども、悪人ならなおさら助かられるという、それよりもっと深い意味がございましょうけれどもです、一番悪人であるという親鸞が助かってある。人から仏様のように言われて、ここに親鸞の助かりがあった。
 いよいよ自分のような屑の子は、又とございますまいとこう思う。分かれば分かるほど、そう実感するのです。もう私ほど神様にごやっかいかけておる者はおるまい。私くらい神様にご無理を申し上げて、私くらいものの信心でこの様なおかげを頂いてしかもこのような信心しかできんのに、このようなつまらん私であるのにという自覚。その自覚が本当なものになっていけばいくほどに、おかげが大きくなっていく。いわゆる屑の子ほど可愛いという可愛いという働きが、そういうおかげになっていくのである。信心さして頂いておりましても、やっぱり自分で心にかかりながらも、心を汚すことがございます。ああ又こんなに汚しよる。ですから確かに信心頂いておりますとです、汚しっぱなしにはしません。先程のガラスをいっぱい汚すようなもの、ですから拭きあげる時には、清めあげる時には、かえって綺麗になる。これが信心がなかったらどういう事になるか。汚れたら汚れっぱなし。そこに信心頂いてる者の有り難さがある。これはあの、無信心者程神は可愛いと仰る。その確かにですね、もういろいろ信心した。何様も拝んだ。かに様も信仰したというような人は本当の意味での信心はできません。あの出来ませんというのは出来にくいけども、けども私はもう何様も拝んだこつもない。本当に、私は無信仰者である。無信心者であるといったようなものが、分かるとかえって、いわゆる垢抜けした信心が出来るようになるもんですよね。よく申しますでしょう。悪に強い人は善にも強い。ですから問題はなら悪人になる。普通でいう、肉眼でみたら、悪人にならなければならんというのではなくてです。心の悪人の自覚を持つということなのである。心の不愚者の自覚。心の屑の子の自覚ということになってくるのですよ。
もう十六、七年にもなりますでしょうか、ある教会で修行した方が、もとはもう手にもつかない、いわば、不良青年であった。その方が一心発起してお道の信心を頂くようになった。同時にここで丁度御理解集第一集が出来た。それをここの総代さんの高芝さんがその方にあげられた。その方は学院に入って、同時にすぐ教会を持たれた。非常に人が助かる。学院でもそれこそ模範生で通された。もう身体には、それこそ身体いっぱい入れ墨をしておるといったような人であった。私はまだその会ってはおりませんけれども、その方からおかげで大変助かっておるという言付けは何回も頂いた。あの御理解集を頂いて、あの御理解集をもとにして、人が助かっておるというような意味の事を高芝さんを通して、又ある方を通して何回か聞かせて頂いた。 
 この人なんかは、いうならばです、自分自身が踏んできたその道をいうものがです、あまりにももう人道をはずれた、いわば警察のごやっかいになったり、いわば普通の方達の迷惑になるような事ばっかりしてきた。そこで、善人よりも誰よりもです、いわゆる悪の自覚が強かった訳なんですね。ですからそこに一心発起されたところが、そういうような神様の気感に適う信心が出来るようになり、人が助かるようにもなるというようなもう、それこそ見違えるような人物になられたわけ。
 結局屑の子の自覚というか、悪人の大自覚がですね、出来られたわけなんです。誰よりも矢張り、悪に強かったから、善にも強かったという訳なんです。けれども私が今日言っておるのは、そういう本当に人にもご迷惑のかけ通し、私はご迷惑をかけたことは無か、私はもう悪そうはしとらんけん、神様は拝まんでよか。もうこの世は真直ぐさえ行きゃよか。と真っ直ぐさえ行きゃよかというておった人がです、人には全然迷惑をかけていなかったという人がです、ひとたび信心の教えと言うものを本当に分からしてもろうて、その教えを鏡にして前に立たさして頂くとです、もう本当に、人にどころか、神様にどころか、もうみんなにです、御迷惑のかけ通しにかけてきた自分。大悪人の自覚というものが段々強うなってくるのです。今日そこんところを私申し上げました。
 ですから結局は自分自身を本当に掘り下げてみるということ。自分自身というものを本当にぎりぎり見極めるということ。例えば難儀な病気をしておる。不幸なことがある。その不幸なこと、難儀な問題をです、こういう病気でもしなければならんほどの私だということなんですよ。もし自分の子供の中に、いわばまぁ不良なら不良の子がおると致しましょうか、もう自分はこういう子供しかもてない自分であるという事をいよいよ分かるんです。ですから、自分を深めて行くということは、教えを前に立てるということは、生きた御教えをいうなら、自分の周辺に起きてくるところの難儀な問題などというものによってです、いよいよ自分というものが、深められる訳なんです。
 自分が深めらられていくと今までみえなかったところがみえて来るようになる。自分の心の隅々がですね、信心を頂かせてもらうと自分の心の中になんとはなしに信心の光が灯る。灯火がともるようなもの。今まで自分の心が真っ暗であったなかに、明かりがつきますから、今までみえなかったところがみえてくるようなもんです。今まで散らかっていなかった。汚れていなかったようでありましたけれども、明かりが灯りましたら、もうそれこそこんなにも汚れておる自分であることが分かってくるのです。
 そこから自分が改まらして頂かにゃ、自分が磨かして頂かにゃということになってくる。本当に私のような者がよう今日までお許しを頂いたもんだということになってくる。今朝から私がお知らせを頂いたことは、そのようなことではなかろうか、本当に自分のような汚いものがあろうか、自分のような見苦しいもんがあろうか。我情我欲の固まりなんだ。自分というものは。というてです、それは丁度そういう汚いものだというものをです、丁度ガラス一面に、私は塗ったようなものではなかろうかと思う。それが分かる。だからそれを綺麗に拭きあげていく。もう心の隅々までガラスの隅々まで拭き清めていかなければおられない。汚れておるのが分かるのだから。それを裏表から綺麗に拭きあげていく訳なんです。形の上にも心の上にも、いわゆる改まっていくのです。清まっていくのです。
 なら清まったからというても、それで良いという事じゃない、又何かすりゃ又汚れるようななもんですけれども、そこんところを清めに清めてしていくというところにです、いよいよ信心が私は深うなっていく。おかげを頂いていく場というものが広がっていく、自分の心の隅々までが分かってくるようになれば成る程にです、いわば私共のいうなら、隅々までおかげの上にもおかげがはっきりしてくるということになります。自分な悪かこつ分かっとる。けれどもです、悪かこつの分かっとるけれども、それを改めようともしない。というならです、これは神様がご覧になる屑の子ではなくてです、いよいよそういういうならばその人の何というか、性根というものがです、段々変わっていく。年をとるに従って、いうなら根性ばかり強うなって人にいよいよ迷惑をかけるような年の取り方になっていってしまう。神様のおかげを受けにくいことになってしまうのです。自分自身の本当にこんな事じゃいかん。というものを気付かせて頂いたら、そこに本気で取り組まして頂いて、それがはっきり分かれば分かるほどです、確かに心はより清まっていくことになる。それはガラスを拭きあげていくようなものなんです。
 屑の子程可愛いと仰る。無信心者程可愛いと仰る。善人でも助かっておるのだから、悪人ならなおさら助かられるというのは、そういう私は意味だと思う。悪に強い人は善にも強い。いよいよ悪の自覚にたたしてもらうときに、これではいけないと一心発起するときにです、悪の自覚というものがあるから、これではいけんというおもいがいよいよ強うなってくる。そこに二人みるような人格が生まれる。そこに例えて自分が助かるだけじゃない。人までも助かるようなおかげにまでなってくる訳なんです。どうぞひとつその辺のところを深めさせてもらうておかげを頂かなければなりません。まだ言いたらない感じが致しますけれどもですね、実際に場合によってはね、信心さして頂きよってもですね。そんな事がありますんですよ。こりゃまぁ良い事じゃございませんけれども、例えば私共横に休まないと言ったような修行をさしてもらった時代があったんです。休まん、それをですね、もうあえて休む、横になって寝る。いわゆる自分で汚す訳なんです。そして心の中にですね、神様が感づいて下さるのをです、じっと待つんです。言うならば、神様からこらっとこう云うてもらうのを聞き耳たてとくのです。ぼんやりしとっちゃつまらん。いうならある意味合いではその危険なことなんです。神様にお約束して、もう日中横になるような事は致しませんというて、というてそこ真剣にしたいけんそこをつかえてくることがある。何か心にこう何か、もうもやもやしたものがどうにも出来ないような場合がある。そん時には、わざと横になって寝てみる訳なんです。寝てみるのです。眠るのじゃない。そしてですね。そこに神の声を聞いたようなものがです、心の中にパァッとこうひらめいてくるのです。もう立ち上がる。飛び上がるようにして、そん時にはですね、もう今まで以上のなんと言うでしょうかね、しゃんとした心が生まれてくる。いわゆるそれは本当に磨かして頂くための本当に磨かして頂くためのひとつの方法なんです。済みませんと云うて、そこんところを汚しといてから拭くといったような、言うならそういう手もあります。それは皆さんにそれをお勧めすることではございませんけれども、私はそんなこともありました。又今でもあります。
けれども、今日はそういう意味ではなくてですね、本当に私共がその悪の自覚というか、汚れ果てた自分である。いわゆる屑のこの自覚に立たせて頂くと言うことの為には、いよいよ自分と言うものを見極めなければならないと言うことを申し上げましたですね。   どうぞ